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海難1890

青苧復活夢見隊 : 2015年10月24日

日本・トルコ合作映画『海難1890』の舞台挨拶付先行上映会に行ってきました。

タイトルの『海難1890』というのは、1890年(明治23年)9月にトルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県樫野崎沖で座礁した事故のことを指しています。
大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは嵐の中、総出で救出、介抱に当たり、69名の乗組員を救助しました。
587名の乗組員は死亡あるいは行方不明となりましたが、この事故は当時の新聞でも伝えられ、全国から多くの義捐金、弔慰金も集まっています。
翌1891年1月には日本海軍の艦によって乗組員たちは無事、本国に送り届けられました。
この出来事はトルコの教科書によって子供たちに教えられ、現在に続く、トルコ国民の日本への好感の大きな一因になっています。

時は流れて1985年、イラン・イラク戦争でイラクのサダム・フセイン大統領がイラン上空を飛行する航空機に対して期限付き無差別爆撃を宣言し、イラン在住の邦人はイラン国外に脱出出来ない危機的状況になりました。
当時は法律によって自衛隊機による救援が出来ず、また、ナショナルフラッグキャリアたる日本航空も「安全が保証されない」として、救援の臨時便を見送ったのです。

各国の人々が次々とイランから避難する中、野村イラン駐在大使はトルコの駐在大使に窮状を訴えます。
要請を受けたトルコ航空は自国民救援のための最終便を二便に増やし、日本人を優先的に便乗させ、期限ぎりぎりでイランを脱しました。
飛行機に乗れなかったトルコ国民は陸路自動車でイランを脱出、邦人は全員がトルコ経由で無事に帰国を果たしています。

この史実を基にした物語なわけですが、作中、トルコの皆さんが自分たちを後回しにしてでも、邦人の救出を優先させてくれた場面には心底「ありがとうございます!」と胸を込み上げてくるものがあります。
日本人ならあの場面で涙を堪えることは難しいでしょう。
自分自身が助かったわけでもないのに、本当に有難いと感じるのは一体何なのでしょう。
日本側がトルコの乗組員を助ける場面では、スクリーンに引き込まれながらもある意味では当然と思って観ていますが、立場を置き換えて、自分がトルコ人になったつもりであの場面を観ると、やはりとんでもなく有難いと思わずにはいられないと思います。

ある本によると、人間に生まれる確率は、「目の見えないウミガメが100年に一度海面に顔を出します。そのとき、ちょうどウミガメの頭が入るほどの穴があいた板きれが海面に浮いていて、その穴にウミガメが頭を突っ込むほど」のことなのだと言います。
お釈迦様がそう話したそうです。
そうすると、人間に生まれて生きていること自体が「有難い」ことで、今こうして存在していることはまさに奇跡と言えるのです。

私は職業柄、いつも植物や虫、微生物や動物を意識して生活していますが、いくら蚊やアリにも大事な役割があると思っても、やはり彼らに生まれず人間でよかったと思います。
お釈迦様の例え通りならば、彼らは人間に生まれたくてしょうがないのかも知れない。
それなのに彼らは特に見返りも求めず、淡々と役割を果たしている。
でも、人間はなかなかそのことが難しい。
トルコの乗組員を救った村人たちも、まさか、95年後にそのような出来事が起ころうとは思いもしなかっただろうし、そもそも何か見返りを求めたわけではないでしょう。
ただ、純粋に善意と真心があったのだと思います。

人間の世の中に暮らしていると、どんなにいい人でも誰かに何かをしてあげれば、「あの人に何々してあげた」と思っているだろうし、中にはそのことを勘定していて、「あの人にあれをしてあげたのに、あの人は何もしてくれない」と言って憤慨したりします。
それは善意のようであって、実は損得勘定に過ぎない。
ある農家の先輩も、「自分に何かをしてくれた人にお返しするというのは、それはそれでいいことだけれども、何か取引のようでもあるから、自分がしてもらったことをまた別の誰かにしてあげた方が良い」というようなことを話してくれました。
二人の間で恩を返すというのは、二人の間で完結してしまいますが、他の誰かにしてあげると、それはいつまでも続いていくことになります。

見返りを求めないというのは、私はエジプトにいるときに強く実感しました。
レスリングを教えていた子供たちに自分の着なくなった服をあげた時、彼らは私には一言も礼を言わなかった。
その代り「アッラーありがとう」と言ったのです。
彼らはイスラム教徒ですから、アッラーに感謝したのです。
彼らの世界だと、この世のすべてはアッラーが動かしていますから、自分たちに服をくれたのもアッラーの仕業であるということなのでしょう。

私も特別見返りを求めたわけでなかったものの、お礼の言葉さえもなかったことは少々ショックでした。
「お礼の言葉」くらいのことは当然心のどこかで期待していたのです。
今だと彼らの世界も理解できますから、特に何も思いませんが、その時には「ああ、お礼の言葉さえも期待しないで、自分がやろうと思ったことをすればいいのだな」と思いました。
確かにあり得ないくらいの確率で存在し、生きているわけですから、アッラーが全てを動かしていると言えるのです。
イスラム教徒でなければアッラーを別の言い方に置き換えてもいいでしょう。

自分の存在自体が数えきれない先祖の連なりから生まれ、今現在も身の回りのものやことを、顔や名前も知らない人たちのお陰で整えてもらっていることを考えると、人は気付かずして、いつも他の誰かのために動いていると言えます。

今回の映画でも、トルコの人が昔の恩を返してくれたと見るのではなく、善意や真心が時空を超えて別の誰かにつながったと見るべきだと思います。
そういう風に見てこそ意義がありますし、私もまたそのようにして生きていきたいと思っています。




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